沿革:当寺は昭和20年5月の戦災によって、本尊薬師如来・脇侍・過去帳および数領の法衣以外の一切を焼失、現在の構築・什物類はすべて戦後の成立である。
寺の生い立ちは江戸時代初期の頃(開山第一世法印秀範和尚は明暦2年12月入滅)。檀徒墓地には、慶安・寛文・貞享・元祿等の立年をもつ墓石が現存、墓地中央部に元祿三年刻銘の施主14人による弥勒半跏像が「為出離三界往生極楽」建立されており、農民の菩提所としての開基が推察される。
その後、五世法印宥真和尚を法流初祖として新義真言宗となり(?)その三世(七世)法印満盛和尚の代には、明和年間に七間半五間半の本堂および庫裡・台所を次ぎ次ぎに構築し寺院としての規模と機能を新たなものとしている。以後九世までの活動ははっきりしない。
明治中期、十世権中僧都宥浄和尚は入山して後地域との連帯・教化につとめ、十一世大僧正浄賢和尚・十二世現住職は檀徒と共にその努力を継ぐ。昭和9年落慶をみた新本堂は不幸にして鳥有に化したものの、戦後の精神界の動揺を憂えて境内の一部に「ひかり幼稚園」を設立し、以後本堂・客殿・庫裡・講堂と順次構築を拡げている。
※中野のお寺 ふれあい広場HPより抜粋
山門をくぐってすぐ左手に池があります。小さな池ですが、鯉が泳いでいます。池の畔には、小さなお堂があり、龍神が祀られています。手水舎の横には合掌した仏様が。
左手には、稲荷神社があり、神仏習合の影響が、この東光寺にも残っています。
山門の手前には、階段状の広い墓所があります。
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