山岡鉄舟とは
天保七年(1836)~明治二十一年(1888)
山岡鉄舟は、明治維新のハイライトといわれる江戸城無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させ、江戸を戦火から救った幕臣です。
西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させ、山岡鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷隆盛は、その後自らも無欲を貫いたと言われています。また、山岡鉄舟は、剣・禅・書の達人として明治維新後の多くの人材に影響を与え、その中でも明治天皇の教育係として十年間仕え、日本の近代化(特に、精神教育や文化)に多大な影響を与えました。しかしながら、どのような形で影響を与えたのか、詳しくは知られていません。また、徳川慶喜に仕え、幕臣として活躍した後に新政府の政治家として茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、また明治天皇の教育係として十年間仕えたという功績は、世界的に非常に高く評価されています。しかし、その功績は一般的にはあまり知られておらず、歴史の影に隠れたままとなっています。これは、日本の歴史の大きな転換期になし得た偉業について、山岡鉄舟は多くを語ろうとしなかったからです。
山岡鉄舟は、幕府飛騨代官、小野朝右衛門の五男に生まれ、二十二歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改姓しました。名は高歩、字は猛虎、鉄太郎は通称であり、鉄舟は号です。
高歩院という寺名は、山岡鉄舟の邸跡であり、名前が寺名の由来です。
現地の様子
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