歴史
宝仙寺は、平安時代後期(寛治年間、1087~94)に源義家により創建された、およそ900年もの歴史を持つ由緒ある真言宗の寺院です。最初は義家の父ゆかりの地である阿佐ヶ谷にあり、現在の中野坂上に遷ったのは室町時代のことと伝えられています。江戸時代には、歴代将軍の尊崇を受けて鷹狩りの休憩所として用いられる一方、庶民にも親しまれてきたお寺です。
また宝仙寺は「中野区」の歴史を振り返る上でも、とても大事な場所です。中野村が中野町から中野区になる流れの中、明治28年から昭和の初期まで町役場また区役所が置かれていたのが宝仙寺の境内でした。宝仙寺は、中野区の基となった「中野村」の名主を代々務めた「堀江家」の墓所でもあります。
宝仙寺には中野区が「中野村」と呼ばれた頃からの歴史をしのばせる文化財なども残されています。江戸初期の寛永13年(1636年)に作られた江戸近郊で唯一の「三重塔」であった「宝仙寺三重塔」や、享保13年(1728年)に渡来した「象」の骨のように戦災で消失してしまったものもありますが、本堂に祀られた鎌倉期の不動明王を中心にした五大明王像や、境内には江戸時代に名産だったそばを挽くのに使われた臼を供養する「臼塚」、寺号の由来となった宝珠を祀った祠「白玉稲荷」や、鎌倉時代作の「無名五輪塔」などは今も残されています。
現在では、著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも有名な寺院です。
*白玉稲荷は明治維新後の神仏分離の際に、分社され、すぐ近くに祀られています。
立地
青梅街道 中野坂上交差点より西に進むと一つ目の宝仙寺交差点より参道を入ってすぐ。
現地の様子
本堂
御影堂
宝仙寺三重塔
宝仙寺三重塔は、現在の区立第十中学校校庭に建っていました。旧地名の塔山は、これにちなんだものです。この塔は、寛永年間(17世紀前半~中葉)の建築で、高さ24メートル、屋根は檜皮葺で、江戸近郊で唯一の三重塔でしたが、惜しくも昭和20年5月の大空襲で焼失しました。
残されている写真や実測図から、池上本門寺五重塔、上野寛永寺五重塔とならんで、江戸時代初期の典型的な建造物であったことがわかります。古記録によれば、中野村の飯塚惣兵衛夫妻が施主になって建立したとあり、かつては夫妻の木像が塔内に安置されていました。当時、三重塔をつくるのは貴族・上級武士が施主となるのが通常ですので、地元の農民が施主になったという点でも、きわめて特筆されるものでもあります。
その後、三重塔は、平成4年の興教大師850年御遠忌記念事業として宝仙寺境内に再建されました。この塔は、消失した塔とほぼ同じ高さの約20メートルで奈良法隆寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築で、心柱は基壇まで貫通しています。塔内には、大日如来等胎蔵界五佛が安置してあります。
山門(仁王門)
中野町役場跡碑
明治28年から昭和の初期まで中野町役場が、また区役所が境内に置かれていました。
六地蔵と見送り地蔵
堀江家の墓所
堀江家の起こりは明らかではありませんが、十二代重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部という人が農民十数人とともにこの地に来て、弘治元(1555)年中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主に任命され、中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。
その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。堀江家は、将軍鷹場の村々への御用触次、青梅街道
中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。
臼塚
神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていました。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、
中野そばとまで言われるようになりました。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていきました。
そうした石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に『石臼塚』を立て供養しています。
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