御金神社を出た時は、11時45分。晴明神社まではと地図を見たところ、私の足で20分位かなと思い、昼食を後回しにじて、歩き始めました。二条城を左に見て、堀川通りをひたすら歩けば簡単と思っていましたが、この通りは、晴明神社の方向に、緩やかですが上り坂になっていたのです。
八坂神社でお餅を食べたとはいえ、この歩きはちょっと堪えました。腹は減るし・・・・。寒さも忘れるウォーキングのすえに、12時15分、やっと到着しました「晴明神社」。
この晴明神社は、ご存知のように陰陽師・安部晴明公をご祭神としています。
晴明神社は晴明公の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所です。晴明公が亡くなられた後、一条天皇は晴明公の遺業は非常に尊いものであったこと、そして、晴明公は稲荷大神の生まれ変わりであるということで寛弘4年(西暦1007年)、その御霊を鎮めるために晴明神社を創建されたのです。古い資料によれば東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大な地域が神社の土地であったとされています。ところが、応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。 そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。 そこで、地元の氏子が中心となり各式年祭、つまり、嘉永6年、明治11年、明治36年、昭和3年に整備改修が行われました。また、昭和25年には多年の宿望であった堀川通に面する境内地を拡張するなど御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。 また、近年は一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。そして、平成15年に晴明神社御鎮座壱千年祭を斎行し社殿の修造と社務所の新築、境内整備が完成しました。(晴明神社HPより抜粋)
安部晴明公の像が本殿に向かって左手に、右手には「厄除桃」があります。
古来中国、また陰陽道でも、桃は魔除、厄除けの果物と言われております。古事記、日本書紀などでも魔物を追い払う様が描かれています。皆さんもよくご存じの昔話で「桃太郎」もこれに由来するものです。鬼を退治できたのも桃から生まれた桃太郎だったからでしょう。誰にでも自身の厄やまがまがしいものがあります。それをこの桃に撫で付けて清々しい気持ちになってください。(晴明神社HPより抜粋)とのことですので、私もこの厄除桃を撫でてきました。
晴明公が念力により湧出させた井戸がこの晴明井です。病気平癒の信仰があり、湧き出す水は現在でも飲んで頂いて結構です。水の湧きでるところに注目すると、その歳の恵方を向いており吉祥の水が得られます。恵方は毎年変わり、立春の日にその向きを変えます。豊臣秀吉が晴明神社の南方に聚楽第(じゅらくだい)を建てた頃にはこの場所が千利休の屋敷でした。また、利休終焉の地で、このあたりで自害したといわれています。(晴明神社HPより抜粋)
参拝を済ませ、遥拝礼(ようはいふだ)という、「晴明公の力にすがりたい、落ち着きが保てない」そんな時に神社にお参りしたくてもできない方の為に、遥か遠方からでもカードを通して神前を拝むことができる御札を購入し、
さて、ちょっと疲れたから近くの地下鉄に乗って京都駅に戻ってから昼食をと思い、ダウンコートのポケットに手を入れると、『無い、無い、無い~!他のポケットを探ってみても、無い~。』御金神社で折角ひいたおみくじが無い!そう、地図を出し入れした時に、大切なおみくじを落としてしまったのでした。落胆したのは言うまでもありませんが、これからどうしようかと思案して出した結論は、来た道をおみくじを探しながら戻るという、腹が減った体には辛い結論でした。晴明神社から御金神社まで下を向きながら戻る道は緩やかに下っていますが、寒さもあって足が進みません。しかもおみくじは紙製なので、どこかに飛んでいってしまったのでしょう、見当たりませんでした。二条城の過ぎて、今度は左折です。左折の先には、ラーメン屋がありました。その名は「七福神」。
空腹と疲労にこの七福神は有難かった。店内に入ってすぐに、メニューにあった七福神ラーメンを注文。3分ほどで、空腹を満たすことができました。(ホッ)空腹が満たされると、やはり気になるのは御金神社のおみくじ。再度ポケットというポケットを全部探りましたが、無いものは無い。よって今日二度目の御金神社参拝と相成りました。おみくじは300円の志納でしたが、疲労度は100%。今度は引いたおみくじをすぐに財布へと仕舞い、ホテルで休憩すべく地下鉄に乗りました。