「ただ貴方のやさしさが怖かった・・」 という部分は人によって受け取り方が大分違うみたいですね。 中野区の魅力をPRする観光資源として、平成26年2月に区から中野区認定観光資源に認定されました。
すぐ目の前には神田川が流れています。 すぐ横の末広橋から上流の伏見橋の神田川沿いの歩道は神田川四季の道と命名されています。 神田川四季の道 末広橋の欄干 末広橋から新宿方面
遊歩道脇にこんな椅子がいくつもありました。子供の頃親しんだ手遊び歌が可愛いイラストとともに紹介されていました。
下記駐車場はakippa(あきっぱ!)で予約ができます。 ●カーサフォレストーネ東中野駐車場【土日祝のみ】 ●柏木ハイツ駐車場 ●北新宿4丁目駐車場
●桃園緑道の”お伽話通り” ●「神田川」歌碑 ●第六天神社 ●龍山稲荷神社 ●子育て地蔵尊 (東中野) ●宝仙寺三重塔跡 ●塔山庚申塔(石棒様) ●白玉稲荷大明神 ●鎮国山高歩院 ●中本一稲荷神社 ●布袋尊石像
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北野天満宮は菅原道真公をお祀りした神社の宗祀であり、国を鎮め守る神として平安時代中期多治比文子らによって北野の右近馬場に菅原道真公の御霊をお祀りしたのが始まりとされています。菅公は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍されました。永延元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得ました。寛弘元年(1004)の一条天皇の行幸を初めてとし、代々皇室の御崇敬を受け、江戸時代には寺子屋の精神的中心として菅公の御分霊がお祀りされるなど、「天神様」として親しまれ、以来学問の神様としての信仰は現在に至るまで受け継がれています。
(北野天満宮ホームページより)
天保七年(1836)~明治二十一年(1888)
山岡鉄舟は、明治維新のハイライトといわれる江戸城無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させ、江戸を戦火から救った幕臣です。 西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させ、山岡鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷隆盛は、その後自らも無欲を貫いたと言われています。また、山岡鉄舟は、剣・禅・書の達人として明治維新後の多くの人材に影響を与え、その中でも明治天皇の教育係として十年間仕え、日本の近代化(特に、精神教育や文化)に多大な影響を与えました。しかしながら、どのような形で影響を与えたのか、詳しくは知られていません。また、徳川慶喜に仕え、幕臣として活躍した後に新政府の政治家として茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、また明治天皇の教育係として十年間仕えたという功績は、世界的に非常に高く評価されています。しかし、その功績は一般的にはあまり知られておらず、歴史の影に隠れたままとなっています。これは、日本の歴史の大きな転換期になし得た偉業について、山岡鉄舟は多くを語ろうとしなかったからです。
山岡鉄舟は、幕府飛騨代官、小野朝右衛門の五男に生まれ、二十二歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改姓しました。名は高歩、字は猛虎、鉄太郎は通称であり、鉄舟は号です。
高歩院という寺名は、山岡鉄舟の邸跡であり、名前が寺名の由来です。
普通の家のように見えますが、レッキとしたお寺です。お寺の名前の下に、住んでいる人の苗字があるのにびっくり。法名ではなく、俗名でした。 (表札の部分の画像は加工済み)
三重塔が最初に建立されたのは江戸初期の寛永13年(1636)といわれており、宝仙寺のホームページによると『江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。』とのことです。 残されている史料によると、高さ24m、屋根は檜皮葺、池上本門寺五重塔・上野寛永寺五重塔とならんで江戸時代初期の典型的な建造物であり、江戸近郊で唯一の三重塔だったようです。
昭和20年5月25日の大空襲で焼失し、平成4年の興教大師八百五十年遠忌記念としてにこの場所から200メートルほど離れた宝仙寺の現在の境内に再建されました。 この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さのようですが、『TOKYO TEMPLE GUIDE』様のページによると『奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築…』とのことで、昔のものとは形が違うようです。
特筆事項として、この塔が最初に建立された時の施主は地元の農民の飯塚惣兵衛という人でした。 当時一般人が三重塔を建立するのは大変珍しいことだったようです(今でも珍しい・・・ですよね?)。
※2019年5月画像差し替え 【案内板】 中野区認定観光資源に認定されています。 【記念碑】
【江戸名勝図会】より (この画像は国立国会図書館ウェブサイトより許可を得て転載しております。) 安藤広重作の在りし日の宝仙寺三重塔の絵です。 当時はこの絵のように塔山一帯は杉や檜が繁茂し鬱蒼とした雰囲気だったようです。 また、描かれている大きな石碑・石塔の一部は現存し、宝仙寺境内に移されています。
下記駐車場は『タイムズのB』もしくは『akippa(あきっぱ!)』で予約ができます。 ●中央3丁目FLC駐車場【akippaで予約】 ●中野区中央4丁目自宅駐車場【akippaで予約】 ●中野本町2丁目駐車場【タイムズのBで予約】 ●【No.1屋根なし】新中野駐車場【タイムズのBで予約】 ●【No.2屋根あり】新中野駐車場【タイムズのBで予約】 ●中野区本町2-9駐車場【akippaで予約】 ●中野区本町2-9駐車場(バイク専用)【akippaで予約】 ●パークキース【akippaで予約】 ●Tino中野坂上駐車場【タイムズのBで予約・akippaで予約】
●明王山宝仙寺 ●塔山庚申塔(石棒様) ●白玉稲荷大明神 ●白玉稲荷神社 ●中本一稲荷神社 ●山政醤油醸造所のレンガ塀 ●明徳稲荷神社 ●桃園緑道の”お伽話通り” ●「神田川」歌碑 ●布袋尊石像
宝仙寺から墓地横を抜けてしばらく歩く。堀江家の敷地の東北の隅に位置する。
建造は、明治32(1899)年と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られ ています。
当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。
全体 奥の兵の向こう側は宝仙寺の敷地です。
非常にきれいに保存されています。
青梅街道中野坂上交差点を西に進み、中野新橋入口交差点手前の鍋横住宅の横の細い道を入っていく。
白玉稲荷大明神 明王山宝仙寺