「ただ貴方のやさしさが怖かった・・」 という部分は人によって受け取り方が大分違うみたいですね。 中野区の魅力をPRする観光資源として、平成26年2月に区から中野区認定観光資源に認定されました。
すぐ目の前には神田川が流れています。 すぐ横の末広橋から上流の伏見橋の神田川沿いの歩道は神田川四季の道と命名されています。 神田川四季の道 末広橋の欄干 末広橋から新宿方面
遊歩道脇にこんな椅子がいくつもありました。子供の頃親しんだ手遊び歌が可愛いイラストとともに紹介されていました。
下記駐車場はakippa(あきっぱ!)で予約ができます。 ●カーサフォレストーネ東中野駐車場【土日祝のみ】 ●柏木ハイツ駐車場 ●北新宿4丁目駐車場
●桃園緑道の”お伽話通り” ●「神田川」歌碑 ●第六天神社 ●龍山稲荷神社 ●子育て地蔵尊 (東中野) ●宝仙寺三重塔跡 ●塔山庚申塔(石棒様) ●白玉稲荷大明神 ●鎮国山高歩院 ●中本一稲荷神社 ●布袋尊石像
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三重塔が最初に建立されたのは江戸初期の寛永13年(1636)といわれており、宝仙寺のホームページによると『江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。』とのことです。 残されている史料によると、高さ24m、屋根は檜皮葺、池上本門寺五重塔・上野寛永寺五重塔とならんで江戸時代初期の典型的な建造物であり、江戸近郊で唯一の三重塔だったようです。
昭和20年5月25日の大空襲で焼失し、平成4年の興教大師八百五十年遠忌記念としてにこの場所から200メートルほど離れた宝仙寺の現在の境内に再建されました。 この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さのようですが、『TOKYO TEMPLE GUIDE』様のページによると『奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築…』とのことで、昔のものとは形が違うようです。
特筆事項として、この塔が最初に建立された時の施主は地元の農民の飯塚惣兵衛という人でした。 当時一般人が三重塔を建立するのは大変珍しいことだったようです(今でも珍しい・・・ですよね?)。
※2019年5月画像差し替え 【案内板】 中野区認定観光資源に認定されています。 【記念碑】
【江戸名勝図会】より (この画像は国立国会図書館ウェブサイトより許可を得て転載しております。) 安藤広重作の在りし日の宝仙寺三重塔の絵です。 当時はこの絵のように塔山一帯は杉や檜が繁茂し鬱蒼とした雰囲気だったようです。 また、描かれている大きな石碑・石塔の一部は現存し、宝仙寺境内に移されています。
下記駐車場は『タイムズのB』もしくは『akippa(あきっぱ!)』で予約ができます。 ●中央3丁目FLC駐車場【akippaで予約】 ●中野区中央4丁目自宅駐車場【akippaで予約】 ●中野本町2丁目駐車場【タイムズのBで予約】 ●【No.1屋根なし】新中野駐車場【タイムズのBで予約】 ●【No.2屋根あり】新中野駐車場【タイムズのBで予約】 ●中野区本町2-9駐車場【akippaで予約】 ●中野区本町2-9駐車場(バイク専用)【akippaで予約】 ●パークキース【akippaで予約】 ●Tino中野坂上駐車場【タイムズのBで予約・akippaで予約】
●明王山宝仙寺 ●塔山庚申塔(石棒様) ●白玉稲荷大明神 ●白玉稲荷神社 ●中本一稲荷神社 ●山政醤油醸造所のレンガ塀 ●明徳稲荷神社 ●桃園緑道の”お伽話通り” ●「神田川」歌碑 ●布袋尊石像
建造は、明治32(1899)年と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られ ています。
当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業でした。
全体 奥の兵の向こう側は宝仙寺の敷地です。
非常にきれいに保存されています。